*[メモ]イラクとか自己責任とかボランティアとか
(注:長いんで。いつもの3行ぐらいの更新に比べて、マジ話長いんで。申し訳ないほどダラダラ長いんで。その割にはしりつぼみなんで。マジ申し訳ないっス。)
イラク3人組人質事件の話。「幹事長のブランチ」がお休みになったことしか取り上げていませんでした。いろいろと思うことはあるのですが、話題のご家族の会見をみることができなかったとか、新聞溜めちゃってなかなかちゃんと読めなかったとかで、ネットでしかニュースを見ていない状態で発言するのはどうかなーと思って発言を控えていました。で、今日になってまとめサイトをざらざらと読み始めているのですが、んー…今のメインストリームがどこなのかがまったく見えない…なんとなくですが、3人と家族への批判が高まるにつれて、判官びいきっぽい意見も目立ち始めているような気がします。たしかに批判の中にはやりすぎに感じられるものや感情的なものもありましたし、それに対して批判の声が出るもの当然かな、とは思います。が、批判の声に対する批判の声にも感情的なものが混ざっている(単なる判官びいきになっている)物もあるし、結局3人はいまだに出てこないし(今朝の新聞でジャーナリストの方の記事は読みましたが)、結局のところどうなの?被害者なの?自作自演なの?どっちがマジなの?と脳内であややが歌ってます。
それはともかく、単純に感じていることを書いてしまうと、私の心が昼間の猫の瞳孔より狭いためか、今回の人質に対してはあまり良い感情はもっていません。その感情の元は偏ったネット情報によるものと、以前から感じているボランティア活動への疑問から出ているものなので、公平であるとはいえないし、正しいものだとも思いませんが。ここから先はその理由をズラズラと書いているのですが、ジャーナリストの方については考えがまだまだ及びませんでした。ので、人質になった3人の中でもボランティアでイラクに行っていた二人(高遠菜穂子さんと今井紀明さん)に関する話題を書いています。


いろいろな説を読み進めているうちに疑問に思ったのですが、ボランティアやNPOイラクの復興支援に関わるということは、どのぐらい「大切なこと」なのでしょうか。
江川詔子ジャーナルhttp://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_29.html

 「自己責任論」には、例えばこんなものがあった。
<自分の意思で行ったのに政府に助けを求めるのは、サーファーが海で溺れて海上保安庁が助け、その救助費用が私たちの税金から出されるのと一緒>
 果たして「一緒」だろうか。
 海が荒れている時にサーフィンをしに行くのと、困難な状況にあって何の支援も受けられないでいる子どもたちを助けに行ったり、劣化ウラン弾の被害状況を調べに行くのは、「一緒」なのだろうか。
少なくとも遊びではないだろう、と思いますし、ボランティアなどの活動をする人を、私は尊いと思います。高遠さんも実際にイラクでお母さんと慕われていたそうで。自分以外の人のことを考え、その思いを行動にうつすことができるというのは、おいそれとできることではないでしょう。しかし、今ネットに流れている3人を擁護する説を読み進めていると、ボランティアとして活動することが、イコールとてもすばらしいこと、に無条件で直結しているように思います。
善意でやっていることだからすばらしい。
自分ではできないことだからすばらしい。
これって、本当にそうなんでしょうか。


「善意でやっていることだからすばらしい。」
私はボランティア活動には、批判を受け入れがたい体制があると以前から思っていました。政府、行政の仕事は、国民の意見。会社の業務は、会社の業績。そういった目に見える効果があるため、これらの団体の活動は良くも悪くも制限されています。利益にならないことや、利益になっても批判を受けることはできないけれど、そうすることで社会に貢献する活動が正しく(まっとうに?効果的に?)できているかと。(例外もあるけれど、それについては気が付いたらどんどん批判すればいいと思います。)
ボランティア活動には、こういったことってあるのでしょうか。
善意を前提に成り立っている活動である以上、その活動には制限も採算性も関係ないでしょう。非効率であっても問題はないからこそ、NGOがよく言う「政府・行政にできないことをやる」ことができるわけです。
逆にいえばそれは、善意に基づけば何でも好きなことができるわけで…その意思がどんな方向に向いていたとしても本人が善意をもっていればボランティア活動になる可能性があります。極論かもしれませんが、「どんな方向に向いていても」ですよ。「暴走族は安眠の妨げになるので善意で37564にしよう!」とかの法律に触れることはさすがに問題でしょうけど、善意の方向なんて人それぞれなわけです。それを、善意でやっていることだからといって無条件で認めちゃったり、ノー批判な雰囲気になっているのって、なんかまずくないですか。怖くないですか。それとも、今回の高遠さん、今井さんの活動は、ノー批判に値するだけの内容をもったボランティア活動だから、そういう雰囲気になっているだけなんですか。
再度書いちゃいますが、善意を前提にした活動では、制限がないからこそできることもあるとおもいます。でも、その具体的な内容に、善意というなんかまぶしく暖かいフィルターをあててぼかす事で、周囲も無条件でOK出しちゃう、というのは別問題じゃないんでしょうか。善意が前提であれば、それは全てノー批判でGOでいいのでしょうか。


「自分ではできないことだからすばらしい。」
もっと根本にある、基本的なボランティア精神への疑問。
自己犠牲ってどうなの?ってことです。
私は、ボランティア活動は、まず自分が足りている状態で他の人へ働きかけることが大前提だと思っていました。「足りている」をどこのラインにするのかでまた色々と疑問も湧いてきますが、私は「自立している事」=「他の人に迷惑をかけないこと」を、最低限の「自分が足りている状態」と考えています。
手元におにぎりがあって、自分も目の前の人も倒れるほどおなかがすいていたら。自分が空腹で倒れない程度におにぎりを食べ、その残りを相手に渡すのがボランティア活動かと思うのです。全部のおにぎりを目の前の人に渡してしまう人は、崇高な理念と強い意思の元に動けるすばらしい人ですね。でも同時に、自分が空腹で倒れてしまって周りに迷惑をかけることに思いが至らない人でもあり、結局それって本当にボランティア活動になっているの?という疑問が生じるのです。
この疑問は、実際に善意にあふれて行動している人に「自己犠牲をはらってでも相手を救いたいとおもう、それこそボランティア精神だ!」と言い切られてしまったら、そこではっきりキッパリした答が出ちゃうわけです。人によっては、その答えを賞賛するでしょう。足りていない会社経営は、業績が悪くなり、破綻することで結末を迎えるけれど、ボランティアは足りていなくても良しとされるのです。
でも、私はとてもそうは思えなかったので、疑問におもっています。周りの人に迷惑をかけてしまう事まで想像して行動することは、ボランティア活動以前の基本的な事じゃないのなぁ、ということです。どれだけ崇高な活動でも、そもそも自分が足りていなければ、その活動に意味はないのではないかとも考えるのです。道徳的には、「幸福の王子」に代表される寓話のように、自己犠牲=よきことのように説かれています。でも現実に照らし合わせたときに、自己犠牲を払うことが美しいことであるとは、単純に思えないんですよ。その自己犠牲による周囲への影響が大きいほど、それってほんとうにいいことなの?という疑問は強く大きくなるのです。
http://d.hatena.ne.jp/y_u_k/20040420#p1

私は、彼らが自ら危険な地に入っていった末に捉まってしまった事を自業自得だという意見も分かるけれども、戦地の子供達や報道のために行動してる人のことを非難する気にはなりません。
だって自分は何にもしてないもの。色々ニュースは入ってくるけど、ふーん怖いね大変だねー、と言いながらお菓子ボリボリ食ったりネットやってるんだもの。
もえもえ言いながらメイドイラストとか描いていて何もしていませんが、非難っぽいことを感じて書いちゃってます。行動するだけの熱意と行動力を持っていること自体は、何もしていない私には非難できない尊い行いだとおもいます。でも、自分が何もしていなくても、何かした人の行動の内容について「非難する気にはなれない」という気持ちには繋がりませんでした。


今回の二人がどのように考え、どのような自衛策をもってイラクにわたったのか判りません。自分の身の安全については省みない!自己犠牲やむなし!という決意で望んだのかもしれません。自衛のために、スティーブン・セガールセガール拳十段)に拳法を習った上でイラク入りしたのかもしれません。その辺がはっきりしない以上断言はできないのですが、今ある情報でみる限りでは、「足りていなかった」部分は多少なりともあったと思います。それを一概に責めるのも彼らの善意を全否定してしまうようで辛いですし、これからの善意にのっとったボランティア活動の妨げになるかも、と心配にもなります。しかし「ボランティア活動によるイラク入り」を擁護する意見に見られる状態…「善意の行動である」「自分にできないことをやっている」というだけで全肯定してしまうのも、また違うのではないかと。責めるまでは行かなくても、肯定しっぱなしもかえってよくないんじゃないかと。えらそうなことをかける立場にはないけれど、どうも書かずにはおられません。というわけで書きますよ。書いちゃいますよ。心臓が懐中電灯で照らされた猫の瞳孔(イジメです)よりも小さい私ですが、思い切って書いちゃいますよ。




イラク
他の人に迷惑をかける可能性があるのに
善意の上でボランティア活動を行う事は
どのぐらい大切なことなのですか?



なんか色々みて回っているうちに、最終的には疑問を投げかけるだけという煮え切らない結論になってしまいましたが、今日の私はこんなことを考えていました、ということをここに書いて忘れないようにしておきます。
(24日の日記に続きというかまとめを書きました。)